SNSを離れた人を見ると、
すぐに「疲れた」と説明される。
人間関係に疲れた
数字を追うことに疲れた
見せ続けることに疲れた
当然そういう面もある。
けど、
今の私にいちばん近いのは
「疲れた」ではなく
作品へ帰ってきた感覚。
私は見せる側にいた
2014年、
SNS起業が広がり始めた頃、
私は起業塾の教え通りFacebookを始めた。
個人が名前と顔を出し、
自分の経験や仕事を発信する。
SNSから人とつながり、
商品やサービスの存在を知ってもらう。
当時の私には、それが未来への歩き方だった。
仕事の様子だけではなく、
何を食べたか
どこへ行ったか
誰と会ったか
何を考えたか
日常の一部まで、自分という人物を伝える材料。
発信すれば反応が返り、人が集まり、仕事につながる。
SNSには即効性があった。
それまでなら会えなかった人とも会え
個人の名前で仕事を動かせる時代が来たことも実感した。
私はその世界を
外から眺めていたわけではなく
見せる側の中心にいた。
自分自身がコンテンツになっていく
SNSでは、
発信者自身がコンテンツになり
仕事の成果だけを見せればよいわけではなく
日常、考え方、服装、交友関係、感情。
その人らしさが見えるほど、
人は親しみを持つ。
けど、自分を見せることと
自分の内側にあるものを書くことは
同じではない。
見せる発信には、
その瞬間の分かりやすさが必要。
一枚の写真
短い言葉
すぐに伝わる結論。
作品には、
すぐには説明できないものも残る。
結論まで到達しなかったこと
何年も言葉にならなかった違和感
人を見て感じた可笑しさ
年齢を重ねて、ようやく意味が分かった経験。
本来の私は、
反応されやすい自分より
自分の内側を見てほしい性分だった。
数字の外へ出て分かったこと
SNSの数字が動いている間、
人は自分が前へ進んでいるような錯覚をする。
反応が増える
見てくれる人が増える
名前を知る人が増える。
けど、
数字が動くことと
自分の中で何かが深まることは別。
誰かに見つけてもらうための発信を続けているうち、
自分が本当に見つけたかったものが後退することもある。
私は、
数字を知らないわけではない。
数字が持つ力も、
人を動かす速さも重々承知している。
そのうえで今、
数字だけでは測れない場所へ移った。
撤退とも違う、
役目を終えた場所から
次の場所へ進んだだけ。
見せるものを選び直した
私は、見せることをやめたのではない。
見せるものを選び直した。
その日の私生活ではなく、頭の中。
すぐに反応される言葉ではなく
時間がたっても読み返せる文章。
私という人物の表面ではなく
私が何を見て、どう判断したのか。
40代は、
自分を知ってもらうために発信してきた。
今は、
自分が見つめたものを残すために書いている。
外へ出すものの基準が変化した。
これが、私にとっての成熟。
私はいま、作品へ帰っている
作品へ帰るとは、
SNS以前の自分に戻ることではない。
見せる経験も、売る経験も、
数字に測られる経験も通ったあとで
もう一度、自分の言葉を選ぶこと。
発信者として過ごした時間があったからこそ
作品と投稿の違いが分かる。
投稿は、その日の人に会いにいき、
作品は、まだ会ったことのない人を待つことができる。
今すぐ理解されなくてもいい。
時間の先で、
必要とする人が見つけるかもしれない。
未来の私が読み返し、
あの頃の自分に会うかもしれない。
私は毎日書いている
未来の誰かに教えるためではなく
生きた証をアーカイブするために。
SNSに疲れたのではなく
私は、作品へ帰ってきただけ。
― きょうは、見せ続ける自分ではなく、書き続ける自分を選ぶ ―

