映画『ボヘミアン・ラプソディ』で
フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックを見たとき
「この人、アタリ役を引いたな」
と思った。
顔立ちも似ている。
動きも研究されている。
何より、
フレディを体現するために
相当な準備をしたことが伝わってきた。
ところが、
その後『Mr. Robot』を観て考えが変わった。
あれ?
アタリ役って、むしろこっちじゃない?
『Mr. Robot』のエリオットが異様に似合う
ラミ・マレック演じるエリオットは、
昼はエンジニア。
夜は天才ハッカー。
コンピューターを武器に巨大な権力へ向かっていく。
この役が、恐ろしいほど似合っていた。
饒舌に話さない、閉じている。
人と馴染まず、
視線ひとつで
「この人の中では何かが起きている」
と感じさせる。
ラミ・マレックという俳優は、
話さない時間に強いのだと思う。
何もしていないように見える瞬間ほど
こちらが彼を見てしまう。
『Mr. Robot』は
シーズン4まで観ないと全貌が見えにくい。
かなり焦らされるドラマだったけれど、
観終わった頃には『ボヘミアン・ラプソディ』とは別の意味で
「この人にしかできない役だった」
と思った。
フレディになった男と、エリオットになった男
『ボヘミアン・ラプソディ』では、
実在した巨大なスターを演じる必要があった。
フレディ・マーキュリーには、
すでに世界中の人間が知っている顔があり、
声があり、動きがある。
だからラミ・マレックの仕事には
「フレディへ近づく」という方向があったと思う。
ところがエリオットは違う。
こちらはラミ・マレック自身が持っている、
社会から数センチ離れているような雰囲気が、
そのまま役の強度になっている。
だから私は、
「フレディ役がアタリだった」
と思ったあとで、
「いや、エリオットこそアタリ役だったのでは?」
とひっくり返された。
そして、さらにもう一度ひっくり返された、
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』。
『007』サフィン登場時の、あの圧
ラミ・マレックが演じた敵役、
リューツィファー・サフィン。
初めてサフィンが音もなく現れたとき
ギョッとした!
画面に現れた瞬間から場の主導権が彼へ移る。
あの制圧感は何だろう。
顔立ちの個性だけでは説明できない。
「次に何をするかわからない人間」が
そこにいるという不穏さを
ほとんど動かず成立させてしまう。
私はここで、
ラミ・マレックという俳優の特異さが少しわかった気がした。
登場すると、その場の空気圧そのものを変えてしまう。
役柄はまったく違うのに、
共通しているのは
「こちらから目を離せなくする力」だった。
それでもデンゼル・ワシントンの前では霞んだ
そんなラミ・マレックを見ていて、
思い出す映画がある。
デンゼル・ワシントンと共演した『リトル・シングス』。
私はデンゼル・ワシントンが好きで、
出演作をかなり観てきた。
この映画でラミ・マレックを観たとき、
「あれ? ちょっと霞んでいる」
と思った。
ラミの演技は、相変わらず静かで上手い。
なのに、デンゼルが画面にいると持っていかれる。
あれは、その人が発する圧なのか?
しかし、あのデンゼルの前では霞んだラミが
『007』では画面を持っていった。
誰が画面の空気を支配しているか。
私は、そこを見るようになった。
そして『007』のサフィンを観たとき、
ラミ・マレックにも同じ類の力があると思った。
アタリ役ではなく、ラミ・マレックだった
昔の私は『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、
「アタリ役!」
と思った。
『Mr. Robot』を観て、
「いや、こっちがアタリ役では?」
と思った。
『007』まで観て改めた。
役が当たったのではない。
ラミ・マレックという俳優そのものが、
役に異物感を持ち込める人なんだと。
彼が入ると、人物に少し特異性がでる。
もしかすると、
それは大御所俳優になるための素養なのかもしれない。
2022年、昔のブログに私はこう書いていた。
「今後もラミ・マレック……Look at you!」
あれから彼の『007』を観た。
やっぱり私は、まだ見ている。
今度は「誰に似ているか」でも
「どの役がアタリか」でもない。
ラミ・マレックが、いつ画面を自分のものにするのか。
そこを見ている。
