50代からの美意識は
足すことではなく
何を通過し何を選ぶかで深まっていく。
女優という表現の場、
王室という制度を経験した
メーガンの現在の佇まいには、
通過した人だけが持つ判断軸がある。
今回は、
メーガンという存在を通して
象徴と制度
距離の構造を考えてみたい。
大前提として、
私はメーガン・マークルがとても好き。
この感情は先に置いておく。
王室という制度は、
距離によって成立している。
触れられすぎないこと。
近づきすぎないこと。
象徴は、
その距離によって守られる。
その前提を
悪気なく崩した人物がいる。
メーガン・マークル。
メーガンが崩したのは
距離。
象徴と庶民のあいだに置かれた
見えない段差。
王室の一員でありながら
彼女は制度の内側から飛び出し
イスラム圏大火災の被災者と並び
炊き出しを続けた。
一度きりではない。
継続だった。
さらに
集まった女性たちと料理本を出版し
支援を経済循環へと変えた。
施す側と受け取る側
その構図を固定しなかった。
それは慈善を超えて、
段差を平らにする行為。
ここに違和感を覚える層がいるのは
不思議ではない。
象徴は上にいることで安定する。
距離は秩序を守る装置だから。
象徴が横に並び
働き
収益を生み
主体を持たせる。
それは、
制度の配置を動かす行為でもある。
制度にとって扱いにくいのは
反抗する者ではなく、
距離をなくす者。
距離が消えたとき
象徴は神話でいられなくなる。
神話でなくなった象徴は
一人の人間になる。
メーガンをめぐる激しい分断は、
人格の問題というより
この再配置への反応に近い。
その構造は理解している。
象徴が距離を失えば
制度は揺れる。
揺れは 抵抗を生む。
それでも私は
メーガンの勇気を讃えたい。
守られた位置に留まるより
段差を降りて並ぶことを選んだ。
私は、
その判断が好き。
理解と好き嫌いは、別。
通過した人は
守られた場所に戻らない。
守られない位置に立つという選択は
平穏と敵を同時に生む。
それでも立つ。
その姿勢に
私は成熟を感じる。
——きょうは 信念を選ぶ。——
