顔は見えているのに
人物が残らない時代の違和感を
美意識と言葉から見ていく。
顔が前に出る時代になった。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、
言葉や行動に顔が伴うことで、
責任の所在が見えやすくなった面もある。
誰もが
自分の姿を見せられるようになり
誰もが
小さなメディアを持てるようになった。
自分もその時代を生きてきた。
ただ、
ある地点から違和感が残る。
見たはずなのに
何も残らない。
美しい写真だったはずなのに
次の瞬間には忘れている。
整えられた顔
選ばれた角度
明るい場所
今日の服
今日の肌
今日のカフェ
だけど、
そこに人物の相貌が浮かび上がってこない。
なぜなら、
判断基準が削がれているから。
何を選んだのか
何を選ばなかったのか
なぜそれを良しとしたのか
なぜそれを切ったのか
そこが見えないまま
顔だけが前に出ると
その人である必然が薄くなっていく。
顔は出ている。
でも
誰でもいい。
この感覚が、
美魔女的なものを見たときに残る
違和感の正体なのだと思う。
これは個人を責める話ではない。
加工もSNSも承認の仕組みも
時代の圧力としてそこにある。
若く見えること
綺麗に見えること
楽しそうに見えること
それらを求められ続ける場所にいると
人はいつのまにか
自分の奥ではなく
外側の反応に合わせてしまう。
見られることには慣れていく。
けれど、
“内側”を見られることには慣れていかない。
ここに大きな差が出る。
写真よりも
その人の判断の痕跡が残るから。
どこで傷つき
どこで選び
どこで退いたのかがにじむ。
私のSNS起業は、
自分の判断基準を言葉にし
予約待ちが続いた。
肩書きではなく
独自視点から
仕事の依頼をいただくようになった。
美しさを見せるだけは、
一瞬で通り過ぎる。
けども、
美しさをどう判断してきたかまで残すと
その人の相貌になる。
顔があるのに人物がいない。
その違和感は、
美しさの問題ではなく
蓄積の問題なのだと思う。
—— きょうは、顔より先に判断基準を選ぶ。——
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美魔女では終わらない人は何が違うのか|人物が残る条件

