香りで旅をするとは
遠くへ行くことではない。
都市の真ん中で立ち止まり
その場所の空気を呼吸で受け取ること。
ホテルの扉を開けた瞬間
その街の時間が
身体の奥へ流れ込んでくる。
ここにいていい
という許可。
それは
旅先の景色よりも
ホテルラウンジで
ふいに訪れる。
あの時は、
ラッフルズ。
部屋からラウンジへ向かう廊下は、
空気と気配が張り詰めていて
自分の足音が
高く響く。
北国のように冷たく
高い直線音。
白いラウンジに入ると、
南国特有の人懐っこい
アットホームな受け答えが
緊張をほどいてくれる。
「お食事になさいますか」
「スモークサーモンがお勧めですよ」
硝子のように冷たい廊下の緊張が
嘘のように微笑む男性スタッフ。
「昨日まで
Michael Jackson
が泊まっていたね」
と話すと、
ウェイターは少し笑って言った。
「Yes。とても静かな方でした」
一拍おいて
「彼も、ここでサーモンを食べました」
言葉を選ぶようにして
「ただ、
顔色があまり良くなくて
少し病気のようにも見えました」
世界的スターの話なのに
その語り方は、
どこか日常の会話のようだった。
ラッフルズでは、
伝説も
少しだけ
生活の中にある。
それはジョルジュサンクの
インルームダイニングで感じた
圧倒的な歴史と洗練
かもしれない。
日本のホテルでも、
忘れられない出来事がある。
たとえば、
帝国ホテル。
娘が東京で発熱したことがあった。
そのときの対応は
忘れられない。
日本の「おもてなし」には
慣れているつもりだったけど、
それでも
感動してしまうほど
奥行きがあり丁寧だった。
大げさな演出はない。
けど、
人を安心させる配慮が
確かにそこにあった。
旅のしかたも
いつの間にか
変わっていた。
若いころのように
目的地を
増やす旅ではない。
ただ、
そこに座っているうちに、
人は
自分の呼吸の速度を
思い出していく。
けれど私は、
SNSに残すための移動は
選ばない。
旅とは、
きっと、
その感覚を取り戻すこと。
記憶に残るのは、
いつも
ホテルラウンジの空気。
—— きょうは 呼吸が戻る場所を選ぶ。——
