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司馬遼太郎|英雄を書く野比のび太説 その後に残るもの

✧Character Studies

男前製造機、司馬遼太郎。


その構造を描いたあと、

ひとつ違和感が残る。

なぜ、あれほどの熱量で
読者は登場人物に惹かれるのか。

型だけなら説明はつく。

のび太型の人物が覚醒する。
人格で男前になる。
国家と時代を背負う。

ここまでは理屈で読める。

けど、
それだけでは足りない。

読者が恋をするほどの温度は、
型だけでは生まれない。

あの温度は、
別の場所から来ている。

司馬遼太郎の文章には、
ひとつの距離がある。

近づきすぎず
説明しすぎず
感情を押しつけない。

それでも、
人物像だけは濃く残る。

この距離感が、
読者に入り込む余地を残している。

人はそこに
感情移入する。

過去に見てきた男。
惹かれた背中。
届かなかった感情。

それらが、
司馬の人物に重なる。

だから恋になる。

登場人物を完成させず、
読者の中で完成させる。

ここに、
司馬遼太郎の特異性がある。

私は『風神の門』を
2年間バッグに入れていた。

あれは、

愛読書を持ち歩いていたのではなく
未完成の感情を持ち歩いていた。

才蔵という忍者が、
読み終えたあとも離れなかった。

考えてみると、
のび太も同じ型を持っている。

彼はヒーローではない。
常に揺れている。
未完成のまま存在している。

だから読者は、
自分を重ねられる。

司馬遼太郎の主人公も同じ。
覚醒しても、
どこかに弱さが残る。

完璧にはならない。

その“不完全さ”が、
人間の体温になる。

英雄を作っているのに、
英雄を完成させない。

ここが、
ただの歴史小説と分かれる点。

——

・完成された英雄を求めるか
・未完成の人間と生きるか

前者を選ぶと、
物語は消費になる。

後者を選ぶと、
名残惜しさを引きずる。

だから、
司馬遼太郎は選ばれ続ける。

——

そしてもうひとつ

司馬遼太郎は、
自分を絶対に物語の中心に置かない。

書き手はどこかで、
自分を主役にしたくなる。

評価されたい。
理解されたい。
中心に立ちたくなる。

そうすると、
物語は痩せる。

司馬はそこに行かない。

常に一歩引く。
観察者の位置に立つ。

だから、

人物の実在感が滲み出る。

のび太が

英雄にならない理由と
同じ型。

司馬遼太郎とは、
英雄を書く作家ではない。

人物が英雄に見える瞬間を
ただ記録している人。

そしてその記録は、
読者の中で完成する。

——きょうは、未完成のまま置くを選ぶ。——

司馬遼太郎|英雄を書く野比のび太説

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