愛という言葉を
長い間
私は感情の問題だと思っていた。
誰を好きになるか
誰に求められるか
誰に理解されるか。
けど、今は違う。
愛とは、
どこに視線を置くかを選ぶ力のことだと感じている。
私は感受性が強い。
世界と社会の構図を深く考え始めると
構造の歪みや力の非対称が見えてしまう。
それを見続けると
胸だけでなく
身体まで蝕まれる感覚がある。
だから私は
生き方を変えた。
視線の置き場所を変えた。
それは逃避ではなく
自己保存だった。
今回の
イスラエル と
アメリカ による
イラン への攻撃報道。
小学校への爆撃という文字。
胸が締めつけられる。
核開発抑止のためなのか。
文書開示という不都合から目を逸らすためなのか。
本当の意図は分からない。
分からないまま
子どもが傷つく。
ここに
正義という言葉はあるのか。
核を持つことを許された国。
持つことを禁じられた国。
誰が定め
誰が裁き
誰が許可するのか。
まるで
ジャイアンが世界を制圧する物語のような構図。
倫理よりも
力が優先される世界線。
その構図を見続けると
私の内側は摩耗する。
だから私は選ぶ。
すべての国が核を手放すか
すべての国が核を持つか。
その極論が浮かぶほど
いまの秩序は歪に見える。
しかし
怒りに身を預け続けることも
また自分を壊す。
愛とは何か。
それは
世界の不条理を知りながらも
自分の内部の光を消さないこと。
怒りを否定せず
絶望に飲まれず
それでも
目の前の小さな選択を整えること。
私は、
世界を制御できない。
けど、
自分の視線は選べる。
体を蝕む場所に
毎日立ち続けることはしない。
それが
今の私にとっての愛。
—— きょうは、視線の置き場所を選ぶ。——

